[木内里美の是正勧告]

過剰反応による本質の喪失と無駄

Vol.12

2009年9月7日(月)木内 里美(オラン 代表取締役社長)

以前、「情報システムに無謬性は有り得ない」ことを本欄で指摘した(2008年12月号)。しかし無謬性を求めて莫大な予算と要員を投じているシステムは今なお少なくない。

典型例が金融関連システムである。背景を金融関係者に訊ねてみると、2つの理由がある。1つは顧客サービスや決済サービスなど、金融機能が損なわれることに対し、極めて過敏になっていること。最近はATM(現金自動預け払い機)を計画的に停止してテストを行うこともあるが、マスコミはこれ自体を顧客サービスの低下だと非難調に書く。問題なくリリースできた時には、ほとんど記事にならず、トラブルを待ち受けている様子がありありだから、余計に神経質になる。

膨大な社会コストをどう避けるか

もう1つは過剰仕様(オーバースペック)。2002年4月にシステム統合に伴う大きなトラブルが社会問題にまで発展した事例があった。2002年12月には金融庁が「システム統合リスク管理態勢の確認検査用チェックリスト」を検査局内の検査官向けに通知し、システム統合リスクの立ち入り検査での確認検証を求めている。

立ち入り検査がどのくらい精緻かつ執拗に行われているかの実態はさておき、リストにある32項目の内容は内部統制で求めている基本的な体制や取り組みと同様のことが示されていて、納得できるものである。ところが金融機関はこのリストに過敏に反応。開発依頼を受ける作り手側からみると、使われない機能もたくさん要求されるためシステムは複雑化し、バグと無駄が増えているという。

これに対し米国金融機関のATMは通常、預金の引き出しに20ドル札しか出てこない。預け入れではATMは紙幣を識別せず、別途に用意された専用封筒に現金を入れて投入する方式。後日、行員が現金を確認して口座に入力する。米国では高額紙幣が使われないとか、日米で預貯金文化と小切手文化の違いがあるとはいえ、至れり尽くせりの顧客サービスが管理コストを高め、顧客への負担を強いることになる。

同様のことは耐震設計にも言える。大きな地震で被害ゼロは有り得ない。仮に無謬性を求めて全ての建物を頑丈に作ったら、社会コストは膨大に増える。1923年に起こった関東大震災は耐震基準を設けるきっかけになった。大きな地震に見舞われると、耐震基準を見直して合理的な補強を講じる。逐次見直すこういうバランスは重要である。人命を守るために倒壊しないだけの強度や補強を考えるところに本質はあり、局地的に被害を受けて建物の再建築が必要になることはやむを得ない。そうすることによって膨大になる社会コストを避けられる。

本質を見失う「行き過ぎの罪」

世の中には過度に振れるために、本質を見失う事象が時々起こる。筆者はそれを「行き過ぎの罪」と呼んでいる。景気に対する企業の投資や消費のマインドの冷え込みもそうだし、J-SOXへの過剰なまでの対応も、個人情報保護への過敏な反応もそうだ。

新型インフルエンザも5月の騒ぎは何だったのかと思わせる。マスクの在庫が店頭から払底した状態は、1973年のオイルショック時のトイレットペーパー騒動を彷彿とさせたが、今では報道もされない。ところが確定患者数は日々増え続けており、フルトラッカーによると7月25日現在、世界で20万人、日本で5000人を超える。

情報システム分野では先の例に限らず、過剰反応による本質の見失いと、無駄が目立つように思う。その典型例が、2002年頃から盛んに言われたEA(エンタープライズアーキテクチャ)だ。業務やシステム、データ、IT基盤を棚卸しし、効率的なIT投資など全体最適を可能にするEAは、電子政府構築の手法としてクローズアップされた。

だがのど元過ぎれば何とやらで、使える電子政府システムはまだ実現していない。民間企業でも同様かも知れない。EAはSOA(サービス指向アーキテクチャ)やクラウドの活用に欠かせないにも関わらず、ほとんど話題に上らなくなってしまった。情報セキュリティも、過度な投資や対策で本質を見失っている事例が目立つ。

このような無駄は産業活性化の足を引っ張り、グローバルな競争力を弱め、国の競争力さえ弱めていくことを常に認識するべきである。

木内 里美
大成ロテック監査役。1969年に大成建設に入社。土木設計部門で港湾などの設計に携わった後、2001年に情報企画部長に就任。以来、大成建設の情報化を率いてきた。講演や行政機関の委員を多数こなすなど、CIOとして情報発信・啓蒙活動に取り組む
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