[市場動向]

「何をIT化するか」が混迷する時代、ゼロベースの発想が求められる

2011年1月13日(木)佃 均(ITジャーナリスト)

手続きごと、業務ごと、部門ごとの単位でシステムを構築するスタイルが馴染みにくい時代が到来している。その時に重要となるのは、ITの限界にも考えを巡らし、自社の将来の姿を見直す姿勢だ。顧客との関係性や経営資源の配置、市場開発力といった項目を視野に、「これまで」を断ち切ってゼロベースで発想する力が問われる。

年が改まったからというのが理由ではない。気分の問題であるかもしれない。今回は随筆風の雑談で始めよう。

筆者が子どもだったころ、「ふしぎな少年」という少年少女向けのテレビドラマがあった。超能力を持つ少年が「時間よ〜止まれ!」と念じると、すべてが一時停止になる。その間に事故や事件の原因を除去したり、謎を解決してしまったりするストーリーだ。その記憶がある筆者には、映画「時をかける少女」は主人公を女子高校生に置き換えた焼き直し版に見えたものだった。

ともあれ、〈時を止めることができたら〉〈時を元に戻せるなら〉と、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。そして間違いないのは、時は決して止まらないし、後戻りもしないということである。

2年前の秋に起こった政権交代が、21世紀初頭の日本という国にとってどのような意味を持ったのか─。その判断は“歴史”に委ねるほかないのだが、とはいえ同時進行で日々を生活している国民の1人として、現政権はあまりに期待はずれで、ふがいなく見える。大臣が地方講演で失言しようが国会審議の答弁に官僚が用意した虎の巻を使おうが、「やるべきこと」をやってくれれば…という感想を抱いている人は少なくないだろう。ただ、決して現政権を擁護するのでなく、一方に「やるべきこと」が何なのか、見えにくくなっているのも事実ではなかろうか。

政治・経済の焦点に北東アジアが浮上

例えば尖閣諸島海域での海上保安庁監視船と中国漁船の衝突。あのような事件が起こること自体、政府にとっては想定外だったかもしれず、海保が逮捕した中国漁船船長の釈放を巡る中国側の強硬姿勢がレアアースの輸出規制に飛び火し、まして現場を撮影したビデオ映像が海上保安庁の職員によってYouTubeにアップされるとは、誰も想像していなかったに違いない。

YouTubeに投稿された尖閣諸島海域での中国漁船と海保監視船の衝突映像
画面 YouTubeに投稿された尖閣諸島海域での中国漁船と海保監視船の衝突映像。投稿したのが海保の職員だったという衝撃的な“オマケ”までついた

続いて発生した北朝鮮軍による韓国・延坪島砲撃と韓国軍の反撃。すわ第2次朝鮮戦争か、と緊張が走ったが、現政権の対応は「情報収集」に終始せざるを得なかった。官房長官が事態の勃発を知ったのはテレビを通じてだったという情報の真偽は分からないが、そのような事態は現政権だけでなく、日本国民の大半が想定していなかったはずである。

経済に目を転じれば、2国間の関税自由化協定(FTA)。欧州、北米の地域経済優先主義が先行し、自国経済を浮揚するためなら国際協調を棚上げして通貨為替安への誘導も辞さない。多国間貿易協定(GATT)が実質的に形骸化しているにもかかわらず、日本政府は多国間協議の幻想にしがみついている。

2010年12月初旬に韓国が米国とのFTA締結に踏み切り、2015年までに両国間の貿易にかかる関税が撤廃される。韓国の猛烈な追い上げを受けている国内の自動車、家電といったメーカーは、「これでは日本の製品は米国市場で勝負にならなくなる」と早くも悲鳴をあげている。安さを追求するあまり中国に生産と原材料を依存し過ぎた結果、レアアースの輸出規制や元の切り上げが日本の経済を直撃する。とにもかくにも2011年の政治・外交、経済は北東アジアへの対応が焦点だ。

矢継ぎ早に登場する政治・経済の新しい局面に、なるほど現政権の対応は後手後手に回っている。民主党議員の不勉強や、絵空事だったことが露呈したマニフェストに拘泥する愚、野党時代の手法を変えようとしない事業仕分けの無理と矛盾…。国民年金問題の是正に取り組み、八ッ場ダム建設を中止すると宣言した勢いはどこに行ってしまったのか。

ではあるのだが、しかし旧与党の自由民主党だってふがいない。選択する政党を持つことがない国民は不幸だ、といっている間に、2011年は統一地方選がある。その前に永田町に再編の嵐が起こるかどうか。政界ビッグバンを望む声がひそかに高まっているように思うのは筆者だけだろうか。

「何をIT化するか」の対象が変わる

このような話題で今回の原稿を始めたのは、「20世紀的なるもの」がガラガラと音を立てて崩れていることを言いたかったためだ。21世紀に入って10年が経過し、20世紀後半に築き上げられた価値観や社会、経済、政治の枠組が大きく変わってきた。この10年は「20世紀的なるもの」が最期の頑張りを見せていたのだが、ついにこらえ切れなくなってきた、ということだ。それは日常の生活とまったく縁遠いものではない。

身近な話題ではスマートフォンがある。昨年はソフトバンクが扱うアップル社のiPhoneがブレークし、年末までにNTTドコモ、au(KDDI)の製品が出そろった。iPadに代表されるタブレット型端末にはいよいよ手帳サイズも登場し、ノートブックPCの需要を置き換えている。指先で画面を大きくしたり小さくしたりメールを打ったり数字を入れたりと、まさに「Information on Your fingers」の時代がやってきた。「ユビキタス」という新語で理想像を描いていたのは、ほんの数年前のことだ。

このような変化の時代に、情報システムの設計と構築はどのようにあればいいのか、というのが本コラムのテーマである。前回は情報システムの要求定義や設計の前に、〈何を〉と〈何のために〉をもう一度考えるべきではないか、という話をしたが、実をいうと、その〈何を〉〈何のために〉が見えにくくなっているのだ。平たくいうと、「何をIT化するか」が分からなくなっているのが実情ではないか。

従来、つまり20世紀型の情報システムでは、手続きごと、業務ごと、部門ごとの「島」を作っていけばよかった。その運営方式はカセドラル型で、「島民」は誰かが定めた規則と手順に従って、黙々と日々の業務をこなすことが是とされた。「島」と「島」の間を往来する連絡船によって必要な物資や郵便物が1週間ごとにちゃんと届けられた。それで何の不足があるか、という時代だった。

ところがインターネットのブロードバンド化やセンサー技術の進歩によって、すべてのシステムがあたかもグループウェアのように連携する時代がやってきた。「島民」がSNSで情報や意見を交換し合い、Twitterで世界に向かって語り始め、YouTubeに映像を投稿する。このような状況を、これまでのシステム設計・構築手法は想定していない。何をIT化するのか、何をITで管理するのか、その対象が変わってきた。情報システムはいま想定外の暗中模索、五里霧中の真っ只中に放り込まれているのだ。

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