[木内里美の是正勧告]

東日本大震災の現場を行く

2011年6月15日(水)木内 里美(オラン 代表取締役社長)

東日本大震災が起こった後、社内に設置された災害対策本部の会議に出席したり、Webで情報を集めたりしながら、できるだけ早い機会に被災地を訪れることを考えていた。学生時代に津波を研究し、当時の恩師が仙台在住だからという理由だけではない。長く土木建設の分野で活動をし、自然を相手に構造物設計を手掛けてきたエンジニアの責務でもあるように思われたからだった。

しかし、なかなか交通手段が回復せず、仕事と家庭内の事情も絡んで私的に行動する機会をつくれずに悶々としていた。事情が許すようになった4月4日、矢も楯もたまらず深夜高速バスで仙台に向かった。早朝の仙台駅周辺はあっけないほど平静で、道路の舗装の一部に損傷が見られるくらいである。

塩竃市の出身だというドライバーのタクシーをチャーターし、仙台港、若林区、名取市、七ヶ浜、塩竃、松島、奥松島、東松島、そして石巻付近を回った。恩師を訪ね、支社の災害対策本部を訪問し、その日の夜のバスで戻ってきた。疲労感よりも、目にしたあまりの惨状に気持ちの高ぶりを抑えられなかった。

写真 若林区周辺の延々と続く壊滅的な被害(筆者が撮影)
写真 若林区周辺の延々と続く壊滅的な被害(筆者が撮影)

体で感じ取った被災現場

壊滅状態と表現される宮城の沿岸部の被災地に立った時、感じたのはここに住んでいた方々の絶望感であった。被災地に広がる荒涼とした瓦礫の山は、復旧にかかる年月の長さを想像させて余りある。その広がりは福島から青森に至る沿岸部の数百キロに及んでいる。

多少なりともそれを緩和させるには、復旧期間中の生活と精神的負担に堪え得る住まいを急がねばならない。1カ月以上経った今も、避難所の床暮らしをしている被災者がたくさんいる。公営私営の空き住戸を引き当てるとか、ハウスメーカーを一斉招集し、他地区の新築住宅への資材供給を遅らせてでも、仮設住宅を最優先で建設しなければならない。瓦礫の片付けも重要だ。仙台東部道路が明らかな防波堤効果を発揮したことから、瓦礫を活用した津波対応の道路計画も必要だろう。

まずは具体的な復興計画で人々の心を建て直し、続いて産業の再生に取り組む。現場の空気の中に身を置くと、それぞれの立場での支援に思い至る。タクシーのドライバーがポツリと言った言葉が印象的だった。「名取の友達の家があったのがここですが、消息はいまも分かりません。新聞やテレビの報道では、現場の臭いまでは伝わらないですね」。

ITの役割の振り返り

被災地の姿を目の当たりにすると、社会インフラとなっているITが無力のように思えた。IT関連機器が全面的に電力依存しているために、電力の安定供給が前提であることに気付く。データセンター運営者は、タイトロープのような日本のネットワークを経験する。多くの企業が東日本からデータセンターを移し、IT企業の西日本への拠点移動も目立つ。物理的なものは確かにそういう脆弱性を持ち合わせている。

しかし本来、ITは無力ではないはずである。実際、ネットを伝わる情報で我々はたくさんの事実を知った。自治体では大量の文書や情報を津波で失ったが、デジタルデータとして遠隔のサーバにあったものは難を免れた。国民IDや電子行政がもっと進んでいたら、安否確認、救援、医療支援、義援金配布、復旧、復興にどれだけ役立ったか、容易に想像できる。

救援物資の第一便で携帯電話や臨時基地局が大量に被災地に送り込まれたら、被災者の情報交換に寄与できただろう。大震災対応の基本指針として、柔軟な法運用とアクティビティが組み込まれなければならない。

東北地方のこれからの産業復興を考えるならば、IT特区としてダイナミックに産業を呼び込むべきではないかとも思う。寒冷地ゆえに沿岸部を避ければデータセンターの適地もある。規制を緩和し、税制優遇で企業を誘致し、教育と産業と行政を結び付け、スマート・シティの先進ソフトウェアパークにするくらいのプランが欲しい。大震災から学んだことを実践に移さねば学んだ意味がない。

木内 里美
大成ロテック監査役。1969年に大成建設に入社。土木設計部門で港湾などの設計に携わった後、2001年に情報企画部長に就任。以来、大成建設の情報化を率いてきた。講演や行政機関の委員を多数こなすなど、CIOとして情報発信・啓蒙活動に取り組む
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